魅力

文化

生活文化

トルコ装飾文化

中央アジアからアナトリアへ持ち込まれた装飾芸術は、セルジュク朝とオスマン帝国時代に重視され、何百年もの蓄積が共和国期へと伝えられた。1936年、国立芸術アカデミーにおいてトルコ装飾芸術科が開設され、メッキ工芸、書法芸術、マーブリング、ミニアチュール、タイル・デザインなどの教育が始まった。現在、イスタンブールとイズミールの3大学(ミーマル・シナン大学、マルマラ大学、ドクズエイリュル大学)において、専門科目として装飾芸術の教育が行われている。このほか文化観光省芸術総局によって、トルコ伝統装飾芸術の保護を目的に数々の活動が行われている。この分野で作品を発表している芸術家たちが現代の芸術観と嗜好にあった現代的解釈に力を入れ、また芸術家たちが作品を発表する場を提供するため、1981年より隔年で行われている「トルコ装飾芸術展」において、2007年には「処方芸術コンクール」、「メッキ工芸コンクール」、「マーブリング・コンクール」、「ミニアチュール・コンクール」、「タイル・デザイン・コンクール」の第14回目が開催された。受賞作及び優秀作は2007年6月にアンカラにて展示された。

トルコ手工芸

アナトリアに存在した多くの文明の文化は、トルコ人の移住後、新しい融合の中において存在しつづけてきた。このためトルコの手工芸の起源は非常に古くまで遡ることができ、社会文化的に非常に重要である。教育機関、公共・民間団体や関係者たちの援助によって、現在まで織物(布、絨毯、キリム、ジジム、スマック、ケチェ)、刺繍(針ぬい、金・銀刺繍)、編物(オヤ、ダンテル、ボンジュク、トゥー、メキキ)、鉱物工芸(貴金属工芸、ガラス工芸)、木彫り、石材工芸(オルトゥ石、大理石、海泡石)、装飾人形、革工芸などの手工芸が作り継がれてきた。

書法芸術

書法芸術というとアラビア文字を用いた文字の芸術が頭に浮かぶ。この芸術はアラビア文字が6世紀から10世紀にかけて発達した後で生み出された。
トルコ書法芸術の創始者とみなされているシェイフ・ハムドゥルラーの様式と芸術観は、17世紀まで続いた。ハフズ・オスマン(1642-98年)はアラビア文字を最も美しい形に書き、後出の書法家はすべてハフズ・オスマンを見習った。
トルコ書法芸術は、19世紀から20世紀の初めにかけても黄金時代を迎えた。しかし1928年にアラビア文字からラテン文字に移行すると、一般的な芸術ではなくなり一部の教育機関による伝統芸術となった。
トルコ書法芸術の最後の大家はハッタット・ハミッド・アイタチである。1891年にディヤルバクルに生まれたハミッド氏は、トルコの出版業界に亜鉛板印刷、スチール上に絵や文字を彫るエッチングやレリーフ、高度な印刷技術も初めて取り入れた。

建築と建築文化

トルコで共和国建国後最初の5年間に建てられた建築物は、オスマン時代後期に設立された建築学校で学んだ当時の建築家らによるものであり、古典的な伝統建築との折衷的な様式が取り入れられた。1928年から第2次世界大戦後まで、首都アンカラをはじめとするアナトリア各都市に急遽必要とされる公共の建物が主にベルリンやウィーンの建築家の参加によって造られ、先進的で国際的な建築意識が芽生えた。

建築家ケマーレッディン・ベイとヴェダット・テクが指導的役割を果たした「第1次国家建築運動」の影響下にある共和国建国初期の建築には、セルジュク朝とオスマン帝国時代の要素が取り入れられ、建物の正面に石材やタイルなどの装飾素材が使用された。アンカラのウルス広場近くにある国会議事堂、アンカラ・パレス、農業銀行、オスマンル銀行、ナマズギャフ・テペの「トルコの家」、民族博物館はこの時代に造られた。

1930年代にはヤンセン・プランによって再整備された首都に、エグリ、ホルツマイスター、タウトなどの外国人建築家が設計した公共建築が建設された。

共和国建国初期の建築関係出版物に、ゼキ・サヤル、アビディン・モルタシュ、アブドゥラー・コザンオールの尽力により刊行されたトルコ初の建築雑誌「アルキテクト」があげられる。この雑誌は1931~36年に「ミーマル」という名で出版されていたが、言語改革後「アルキテクト」と改称された。1954年に設立された建築家協会の公式出版物として現在も「ミーマールク」という名で刊行されている。 

1940~50年に行われた第2次国家建築運動は、1920年代の形式主義的アプローチとは違った特徴をもち、サダット・ハック・エルデムを筆頭に伝統的大衆建築に重きをおいている。この時期は装飾的特徴よりも、ひさし、格子、2階部張り出し、出窓などの構造物が使われ、建築デザインにおいて調和と均衡が重要視された。また、国産建築と建築資材産業が発展した。

1980年代は、急速な都市化とともに建築や建築家が軽視された時期である。そして今、失われた都市的アイデンティティーと不毛化された国内建築事業の再構築が始まった。トルコの建築業界の基本的問題は、2005年にイスタンブールで行われたトルコ建築家協会の主催による世界建築家連合(UIA)第22回世界大会で、「建築のグランバザール」をテーマに話し合われた。2007年に建築家協会によって開始された「トルコ建築政策を生活に取り込む」運動によって、建築の職業と専門分野がもたらす責任と権限が国民に帰することにおける困難を乗り越えるための活動が行われている。また、建築家協会が作成した「建築に関する法律」案により、問題を法の観点から解決するために前進している。

音楽

トルコ音楽は、セルジュク時代から現代に至るまで様々な分野での発展を遂げた。これらの分野には、知識人たちが都市で発展させたトルコ古典音楽、アナトリアの人々のあいだで何百年もの間、直接口承的に発展してきたトルコ民俗音楽、宗教音楽、軍楽がある。現代音楽の基礎となる西洋の和声は、トルコでは音楽の分野として共和国建国以後に受け入れられた。近年、特に発展しているポップス、ロック、ジャズはトルコでも人気のある音楽分野である。   毎年トルコで多くの音楽祭やイベントが催されている。また2005年には文化観光省芸術局所属の合唱団は、81県でコンサートを800回行った。

古典音楽

トルコ古典音楽は15世紀のオスマン宮廷で始まり、19世紀まで常に発展した。この分野の最も古い楽譜は17世紀のものである。トルコ音楽にみられる「コマ」という独特な微分音を使った音列により、多くの旋法(マカーム)が生み出された。

古典音楽に使われる楽器の主なものは、ネイ、タンブール、ウード、カーヌン、ケメンチェ、クデュム、デフ、ジル(ハリレ)などである。

民俗音楽

民俗音楽の特徴は作者不詳にある。その旋律が「作者不詳」であるという特徴を持つということは、民衆の内部から涌き出る創造力が世代から世代へと伝えられることにより伝統が守られるという意味をもつ。民謡は、共和国期とともに実施された公の音楽政策によって「現代」トルコ音楽の基となった。このため全国で民謡調査が行われ、採譜と資料化作業が重視された。1936年に設立された国立アンカラ音楽学校に民俗音楽研究が一任され、1952年まで毎年行われた調査活動により1万曲が採譜され資料として保存された。

現代音楽

ポップス、ロック、ジャズ 1960年代頃から世界的に広まった「ロックンロール」、および1960年以降ビートルズによって形成された「ビート」という概念により、音楽に若者世代独特の行動様式が取り入れられ、トルコの音楽グループもこの流れを追いかけた。当初は外国の曲にトルコ語の歌詞を合わせるというかたちで現れたこの動きは、その後、西洋の軽音楽とトルコ民俗音楽がミックスされた独特な曲風を生み出した。芸術的解釈、創作性、音楽性を重視する曲が主流となった。この進展と並行して、近年トルコでは巨大な音楽産業が形成され、国産カセットテープやCDの売り上げが飛躍的に増加した。特に若者に支持されるトルコポップやロック音楽のミュージックテープは、販売記録を更新しつづけている。

オペラ・バレエ

トルコでは共和国宣言以降、ポリフォニー音楽の普及活動が始まった。オペラは音楽の最高形式として認められ、トルコのオペラの設立に向けて活動に力が入れられた。1930年、イスタンブールでオペラ協会が設立され、1934年には「大オペラ団」によって、ヴェルディの「ラ・トラヴィアタ」が公演された。同年、アタチュルクとイラン国王シャー・ルザー・ペフレヴィーの御前で大成功を収めたアフメット・アドナン・サイグン作のオペラ「オズソイ」は、トルコのオペラ史上重要な作品となった。1936年、国立アンカラ音楽学校の創設と、最上級生のための音楽学校実演舞台の設立により、本格的なオペラ教育活動が始まった。ドイツから招かれた著名作曲家ポール・ヒンデミットとオペラ監督カール・エバートは、トルコのオペラ芸術の発展に多大な貢献をした。この時期に教育を受け、後のトルコ・オペラ界で指導的役割を担うことになる若い学生たちは、1940年にアンカラ民衆の家ホールで初公演を行った。

演劇

中央アジアからこの土地にいたるまでに起きた出来事を語るトルコ人の伝統がイスラム文化と結びついて発展し成立した「メッダフ」(漫談)は、16世紀に完成した。ルネサンス期イタリア大衆演劇「コメディア・デラルテ」と非常に似通った点を持つ、伝統的なトルコ演劇の最も発展した形式であるオルタオユヌ(一種の即興野外劇)は、カラギョズ(影絵芝居)、ククラ(人形劇)、メッダフ(漫談)といった民俗芸能のすべての要素を含んでおり、19世紀末から20世紀初めにかけて黄金期を迎えた。オルタオユヌは1839年に始まるタンジマート改革期における西洋化過程においてトルコに流入した西洋モデルの演劇と長い間しのぎを削った。

映画

1914年にフアット・ウズクナイが撮影したドキュメンタリー映画「アヤステフォノスにおけるロシア記念碑の崩壊」が、初のトルコ映画とされる。また1914年に撮影が開始され1919年に完了した「ヒンメット・アーの結婚」は、初期の映画作品のひとつである。この時期、第1次世界大戦に関するニュース映画や題材映画なども撮影された。

1922年にトルコ初の映画会社が設立されてから監督を始めた演劇家ムフシン・エルトゥールルは、1950年代までトルコ映画界に多大な影響を及ぼした。祖国解放戦争を題材にし、初めてトルコ人女優が登場した「苦悩」(1923年)、トルコ初のトーキー映画「イスタンブール路地」(1931年)および「民族の目覚め」(1932年)などの作品は、その映画人生において30本以上の映画を監督したムフシン・エルトゥールルの代表作である。年に1、2本制作された1950年以前でも、演劇の映画に対する影響は大きかった。

トルコの演劇の影響から抜け出し、「映画の言葉」を持って実現されたトルコの映画活動は、1950年代まで、フランス映画の 「詩的現実主義」やアメリカの「フィルム・ノワール(暗黒映画)」に影響されつつ、これらをトルコの本質的題材に取り入れたリュトフィ・アカドによって始まった。1960年まで続くこの期間に制作された映画の本数は年間平均60本にまで増加した。1960年以降、トルコ映画界は新たな活動期を迎えた。メティン・エルクサン、ハリット・レフィー、エルデム・ギョレチ、ドゥイグ・サウルオール、ネヴザット・ペセン、メムドゥフ・ウンなどの監督が制作した映画において、社会問題が取り上げられた。題材、配役、表現形式面において、かなり異質で優れた映画が制作された。

なかでも、農村の現実をあらわしたメティン・エルクサンの映画「水のない夏」(1964年)はベルリン映画祭で入賞し、トルコ映画界に国際的成功をもたらした初めてのトルコ映画となった。1960年代後半以降、年間平均映画制作本数は150~200本まで増加した。しかしながら、これらの映画は質的な成功を収めることができず、映画制作本数の肥大化を招いた。1968年末にはテレビ放送が開始され、映画界は大きな危機に直面した。  

1967年サーミ・シェケルオール教授は、映画資料室をつくり、映画を次世代に引き継ぐことを目的とした「トルコ映画資料室」を設立し、翌年には政府に寄贈した。

1970年代以降、リュトフィ・アカドの映画の手法に影響され、社会構造に関するテーマを扱ったユルマズ・ギュネイ、スレイヤー・ドゥル、ゼキ・オクテン、シェリフ・ギョレン、フェヴジ・トゥナ、オメル・カヴル、アリ・オズゲンチュルクなどの監督たちが映画界に新風を吹き込んだ。1980年以降にはトルコ映画は国際舞台で話題にのぼるようになった。この時期、心理や社会、女性問題をテーマとした映画が多く作られた。

1990年代にトルコ映画界は質的に最も成功した時期を迎えた。この時期、映画教育を行う大学の増加、知識豊かな監督と俳優の活躍、映画芸術奨励に関し国によって定められた法律や支援、映画とテレビの競争の激化、そしてトルコ映画の国際的な成功などが、トルコ映画界をますます活性化させる主な要因となった。